賛育会ヒストリー

第一章:賛育会の歴史 第一話 はじまりは、大正時代。貧しい庶民のための無料診療だった。

賛育会の物語。それは1917年(大正6年)に、東京帝国大学キリスト教青年会(東大YMCA)の有志が貧しい庶民のために無料診療を行ったことが、すべてのはじまりでした。

メンバーには、河田茂博士(後の賛育会病院初代院長)などの名がみられ、医療は庶民の手の届かないものと言われていた時代に設置されたこの診療所が賛育会の前身といえます。やがて河田博士は欧州視察から帰国された木下正中博士(後の賛育会初代理事長)を尋ね、視察の教訓から妊産婦及び乳児の相談所を開くことを勧められます。二人は意気投合、さらに指導役として吉野作造博士(東大YMCA理事長)なども加わり、賛育会設立の役者がここに揃います。

1918年(大正7年)3月16日、キリスト教の精神「隣人愛」に基づき、婦人と小児の保護・保健、救療を目的とし「賛育会」は創立されました。賛育会という名称は、初代理事長となった木下博士が中庸にある『天地ノ化育ヲ賛ク』から名づけました。

賛育会本所産院(大正8年~12年)
賛育会本所産院(大正8年~12年)

同年4月1日、古工場を借りベッドひとつの「妊婦乳児相談所」を開設。これが賛育会病院のはじまりです。翌年には庶民を対象とした日本初の産院が開設。そして数年後、活動を広げているさなか、1923年(大正12年)に関東大震災に見舞われてしまうのです。

第二話 大震災にも負けない、希望をつなぐ強い心。初代院長・河田茂が賛育会を蘇らせました。

賛育会本所産院(現賛育会病院)の院長になって二か月。33歳の河田茂は産院の食堂で昼食をとっていました。そのとき大地が強く揺れました。1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の関東大震災です。食堂の隣は託児所。河田はすぐに子どもたちを避難させました。壁が落ち、泣き声が家のきしむ音と混じり、町がウワーンと吠えたように揺れている。二階には入院中の産婦が10名。這って階段を上がる河田。断続的に破壊的な大きな振れが約10分間も襲ってきたといいます。

逃れた一行は、乳児と産婦と託児所の子どもで35~36名でした。 昼食時でもあり至る所から一斉に出火、夕刻には火災旋風(火の竜巻)が巻き起こり、死者行方不明14万2800人 と東京はまさに地獄と化しました。産院を焼失し呆然とした河田でしたが、すぐに救済班を組織し救護活動に協力。さらにテントの臨時産院を設け被災乳児の収容保育を行いつつ、施設復興に奔走します。

賛育会本所産院前で(大正15年)
賛育会本所産院前で(大正15年)

震災後のある日、河田は薄汚れた被災者の姿のまま宮内に押しかけ、現金一千万円という奇跡的な救済金を持ち帰ります。そして友人たちの助力を得て、仮建築の産院を元の場所(墨田区)に建てました。しかし、施設運営を経済的に支えた木下正中(賛育会初代理事長)の病院も焼失。自立を余儀なく迫られ、無償の慈善事業から有償の社会事業に転換することになるのです。

第三話 東京大空襲で賛育会すべての施設が全焼。しかし、再建への情熱は燃え尽きませんでした。

1933年(昭和8年)3月、賛育会第3代理事長に藤田逸男が就任したころ、時代は世界第二次大戦を予感させる情勢でした。一方、賛育会は6つの施設を有し職員総数は144名と大きくなっていました。そして、さらに規模を拡大しているさなか、1941年12月8日、真珠湾攻撃によりついに開戦。全戦全勝と謳われた戦局も次第に苦戦へと変わり、軍人要員確保が急務となっていました。

1944年5月、賛育会全体の舵取り役であった常務理事・丹羽昇が赤紙召集され出征。8月には賛育会石島病院副院長・竹岡秀策が出征。9月にはその後任者も出征するなど、次々と人材が軍隊に取り上げられていきました。そして1945年3月10日未明、B29爆撃機325機による焼夷弾の雨が東京下町23万戸を焼き尽くしたのです。死傷者は12万人。賛育会の施設もすべて焼失。が、幸い賛育会病院と錦糸病院の患者を荒れ狂う炎の海から命からがら避難させることはできました。しかし、その後すぐさま被災者救護に立ち上がる気力は奪われ、ついに、空爆の2日後に焼けただれた賛育会病院の屋上で解散式を行い散り散りに。8月の広島と長崎への原爆投下で日本は無条件降伏。

終戦後の賛育会病院(昭和23年ころ)
終戦後の賛育会病院(昭和23年ころ)

その秋から「りんごの歌」に人々は励まされ日本再建が始まります。しかし、理事長・藤田逸男も常務理事兼院長・河田茂もまだ暗闇の中にいました。その闇に希望の光を射す二人の男が戦地から帰還してきました。前記の丹羽昇と竹岡秀策が復員してきたのです。

第四話 多事多難を乗りこえ、社会福祉法人に。隣人愛の心で、これからも使命を果たしていきます。

1945年8月15日、日本の無条件降伏で戦争は終わりました。戦災をうけ解散した賛育会は、苦難の戦後生活の中で、いまだ復興の目途が立っていませんでした。そんな中、戦地から生還した丹羽昇(常務理事)と竹岡秀策(石島病院副院長)が石島病院跡で再会。1946年1月28日、強い情熱を胸に二人は賛育会復興へと動き出します。6月10日、賛育会病院の焼けビルの一部で診療を再開。竹岡が全科を一人で担当、一つだけの診療室は窓ガラスもなく、冬はセロハン紙を貼って過ごしたそうです。

一方、丹羽は中央社会福祉協議会設立に関与するなど、日本の社会福祉事業の枠組み構築に日夜奔走。彼の活動は賛育会に新しい視点を与え、後に医療社会事業部の開設へとつながっていきます。そして病院の修復が進む中、高松宮さまが2度ご視察に。さらに、1951年には天皇・皇后両陛下も病院をご視察。全職員の士気は高揚するも、まだまだ財政困難のため職員給料は半額支給というありさまでした。しかし、1952年、賛育会は財団法人から社会福祉法人に組織を新たに変更。順調に事業は拡張されて行きます。

1964年頃の特別養護老人ホーム清風園
1964年頃の特別養護老人ホーム清風園

時は経ち1964年に特別養護老人ホーム清風園を東京町田に開設。70年には長野に、翌年には静岡に清風園を開設。将来の社会にあるべき医療と福祉と保健との総合機関として大きく動き出しました。その後オイルショックなど多難な時代を組織運営改革を幾度となく行い危機を乗りこえ今日まで前進してきました。96年前に有志が始めた社会福祉運動であった賛育会は、時代のかたちに合わせ、常に地域の人々のニーズに応え、これからも使命を果たしていきます。

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