賛育会ヒストリー

第四章:賛育会とその時の日本 - 第一話 賛育会設立時の日本は…

賛育会が誕生した大正時代。それは、どのような時代だったのでしょうか。

大正時代は、14年5カ月という大変短い期間でしたが、世界全体が大変革を迎えた時期でもありました。
中国では清朝が滅び中華民国が成立、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発。ロシアではロシア革命が起こり、世界初の社会主義国家ソビエト連邦が誕生。ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国も倒れました。
日本でも、戦争の影響で米の価格が高騰、民衆によって米問屋が襲撃される「米騒動」が全国各地で発生する一方、「普通選挙権運動」「婦人参政権運動」が盛んになり「大正デモクラシー」といわれる民主主義的風潮が広がりました。

文化面では、「大正文化・大正ロマン」といわれる、都市型の洗練された大衆文化が花開きました。文化住宅・文化鍋・文化包丁など「文化○○」の名が流行し、東京の丸の内・大手町にはオフィス街が形成され、呉服屋だった三越や高島屋といった老舗が、次々に「百貨店」に変身を遂げていきました。庶民生活に電気が広まったのもこの時代、ラジオ放送もこの頃に始まりました。

近隣住民に米・味噌・醤油を安く販売
近隣住民に米・味噌・醤油を安く販売

そんな日本社会が目まぐるしく変わる最中の1918(大正7)年3月16日、賛育会は産声を上げました。
「大正デモクラシー」の旗手、吉野作造にも支えられ、「細民」と呼ばれた貧しい人たちの子供の命に寄り添う活動を初め、当時の朝日新聞では「貧しい妊婦を保護」との見出しで報じられました。

発足5年目の1923(大正12)年には関東大震災という大苦難にあうも、隣人愛の志をもって本所産院などを再建し、妊婦の家庭訪問や地域の実情調査など、その活動の幅を広げていったのでした。

関東大震災後~アジア太平洋戦争終戦の頃の日本は…

関東大震災からの復興とアジア太平洋戦争の勃発した昭和初期。それは、どのような時代だったのでしょうか。

昭和時代は、関東大震災の影響を大きく受けた中で始まります。復興住宅『同潤会アパート』の建設が続く中、1927(昭和2)年には金融恐慌が、1929(昭和4)年には『暗黒の木曜日』に始まる世界恐慌、1931(昭和6)年には昭和恐慌と、社会が揺れ動くスタートでした。

当時の防空演習風景
当時の防空演習風景

またこの時代は、戦争へと歩んでいく時代でもありました。1931(昭和6)年の満洲事変、翌年の満洲国建国で国際的孤立が進み、国内でも、5・15事件(1932年)2・26事件(1936年)と青年将校の反乱など暗い影が落ちる中、1941(昭和16)年、太平洋戦争が始まりました。
多くの悲劇を生んだ戦争は、やがて敗戦へと向かい、1945(昭和20)年、東京大空襲などで焦土と化した日本は、ポツダム宣言を受諾し終結しました。

まさに激動といえるこの時代、賛育会は、主に『大井診療所(後、大井病院)』『錦糸病院』『本所産院』『砂町診療所(1933年閉鎖)』の運営を開始し、1930(昭和5)年に『本所産院』を『賛育会病院』として再建しました。さらに1942(昭和17)年には『石島病院』を開設して、賛育会・錦糸・大井・石島病院の4つの病院事業を中核に、隣人愛の実践に努めました。しかし、戦火は賛育会をも飲み込み、1944(昭和19)年には東京都建物強制疎開計画で大井病院を売却、1945(昭和20)年の東京大空襲で賛育会・錦糸・石島病院を焼失し、主要拠点のすべてが灰燼と化しました。それでも隣人愛の実践に燃える賛育会は、長野に妊産婦・乳児の疎開受託施設と古間診療所を開設しその志を繋いでいったのでした。

戦後~高度経済成長期の頃の日本は…

敗戦の焦土から『東洋の奇跡』といわれた復興を成し遂げた戦後の昭和時代。それは、どのような時代だったのでしょうか。

1945年(昭和20)年のアジア太平洋戦争終戦からGHQによる占領時代を経て、日本は高度経済成長期を迎えました。1958(昭和33)年には、今では年間1000億食を超える『インスタントラーメン』が誕生、年末には『東京タワー』が完成、1964(昭和39)年には『新幹線』が東京オリンピックの9日前に開業するなど、日本全体が復興と成長の熱気に包まれていました。
一方で、急速な経済成長の歪みとして、水俣病、イタイイタイ病などの四大公害病に代表される公害事件や、安保闘争や全共闘運動などの学生運動が盛んになるなど、国や社会問題への関心が高まっていった時代でもありました。

そんな社会が成長し変わりゆく時代、賛育会もまた、復興と発展の変革期を迎えました。

1948(昭和23)年頃の外来待合室の様子
1948(昭和23)年頃の外来待合室の様子

終戦後間もない、1946(昭和21)年6月には『賛育会病院』の診療を再開、翌年には豊野診療所を『豊野病院』へ拡充しました。1950(昭和25)年、戦時中に紙不足で中止していた賛育会ニュースを復刊。1952(昭和27)年には、東海事業所の先駆けとなる『東海病院』を開設しました。

また同年、財団法人から社会福祉法人へと法人格を変更し、社会の苦難に寄り添う覚悟を強めると、東京オリンピックの1964(昭和39)年には『清風園』を開設し、時代の声に応えるべく、高齢者福祉事業に乗り出したのでした。
1968(昭和43)年に創立50周年を迎え、ますます隣人愛の使命に心を燃やしつつ、1970(昭和45)年に『豊野清風園』、翌年に『東海清風園』、1981(昭和56)年に『東京清風園』と、各地へ働きを広げていったのでした。

昭和から平成へ バブル景気から介護保険制度を導入した頃の日本は…

バブル景気から平成不況、社会保障制度の改革のあった時代。それは、どのような時代だったのでしょうか。

1980年代、バブル景気に日本中が沸きます。やがてバブルは弾け、時代が平成へと移った頃には平成不況を迎え、就職氷河期、金融機関の不良債権問題など、日本経済は低迷期にはいりました。また、社会保障費の増大に対応するため、2000(平成12)年には「措置から契約へ」の声の下に介護保険制度が始まりました。
生活面では、国鉄からJRへの分割民営化や消費税3%の導入など、まだ記憶に新しい変化が起きる一方で、クウェートの湾岸戦争、ソビエト連邦の崩壊、そして阪神淡路大震災と、自然災害や戦争など、世界が揺れ動きました。

賛育会ロゴマーク
賛育会ロゴマーク
70周年の時に募集し、
635点から選ばれた

そんな時代、賛育会も拡大と変革期を迎えました。1983(昭和58)年、賛育会後援会が発足。1988(昭和63)年、創立70周年を迎え、『賛育会憲章』を制定。1991(平成3)年、老人保健施設「ゆたかの」を開設。同年、行政が建設した施設の運営を受託する「公設民営」の賛育会初の施設となる中央区立特別養護老人ホーム「マイホームはるみ」の運営受託を皮切りに、1992(平成4)年に「はなみずきホーム」、1995年(平成7)、年「マイホーム新川」、1997(平成9)年「たちばなホーム」と要請に応え受託を進めました。また、賛育会としても1997(平成9)年に東京都町田市に特別養護老人ホーム「第二清風園」、2001(平成13)年「相良清風園」を開設し、地域の声に応え、働きの場を広げていきました。一方で、賛育会の職員数も約1,000名から2,000名近くに増えるなか、法人としての統一した処遇の実現や諸規定の整備など、組織としてのありようを整え、現在の基礎を築いたのでした。

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